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ケン幸田の世事・雑学閑談(千思万考)

ケン幸田の世事・雑学閑談(千思万考)

第百三十七話:「目黒の秋刀魚・味覚の秋」

名作落語に、殿様が目黒での鷹狩の帰途、空腹を感じ近くの茶屋に立ち寄り、焼きたての秋刀魚を食べ、その美味が忘れられず、後日家臣に所望したところ、房州から生きのいい秋刀魚を取り寄せ、頭を切り落とし蒸して小骨を抜き脂も抜いたものを出したところ、極めて不味く、「房州はいかん。さんまは目黒に限る。」と言う話があります。確かに、昔は目黒川河口まで海が迫っていたので新鮮とは言え、産地の違いが味を決めたのではなく、当時は下魚とされた秋刀魚は幕府要人の口に登ることなく、ましてや城の料理人には、農漁民や職人たちの食べ方をご存じではなかったのも頷けます。この話史家によると、裏付けもあるようで、三代将軍家光は、今も東横線の学芸大駅東に「鷹番町」と、水飲み場の碑文谷公園の「弁天池」が現存するように、当時の鷹狩名所の目黒によく出向き、立ち寄った茶屋坂の「彦四郎爺の茶屋」があったそうです。(広重の「名所江戸百景の茶屋」の題材だった)元来は庶民人気の下魚だったので、江戸時代は季語になっておらず、名句も明治以降の俳人の作に限られるようです。夕空の土星に秋刀魚焼く匂ひ     川端茅舎秋刀魚焼く煙の中の妻を見に     ...
ケン幸田の世事・雑学閑談(千思万考)

第百三十五話:「夏野菜・胡瓜よもやま話」

夏野菜の定番「キュウリ」は、インドのヒマラヤ山麓の原産でシルクロードを渡って来たことから、*「胡瓜」と表記しますが、黄色の花を咲かせ、実が熟すと黄色くなるので「黄瓜」とも表記されます。花言葉の「洒落」は、胡瓜のすらりと伸びる細長い姿や、反り返って曲がったユーモラスな形状に由来するそうです。 生き得たる四十九年や胡瓜咲く     日野草城窯の道胡瓜花咲き雲暑し        水原秋櫻子わたしの胡瓜の花へもてふてふ     種田山頭火 平安時代には、すでに我が国へ伝わっていたようで、室町時代に来日した宣教師のフロイスは日欧の文化の比較を多々論じており、その中で、欧州人は胡瓜を未熟なまま食べるが、日本人はすっかり黄色に熟してから食べると記しています。瓜類の中では、花が咲いてから一番早く、数週間で収穫できる利点もあり、その後江戸時代までには、広く全国の庶民にも普及こそしましたが、味覚に敏感な日本人には、胡瓜独特の苦みを嫌い、「賞玩ならず」と「最下品」に格付けされるなど、余り人気はなかったそうです。さらに、切り口が徳川の葵の紋に似て縁起が悪いとか、三日天下の明智光秀の紋に似て縁起が悪いだの評判は...
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第百三十三話「六月の花嫁はさくらんぼの季節」

薄暑のみぎり、言い古された語句「衣替えの候」となりました。まもなく、鬱陶しい梅雨入りかと思うと、気も重くなりがちですが、コロナ感染がやっと下火になり、人出が増えてきたことで、何となく心ウキウキの感も綯い交ぜにもなるこの頃です。愛らしい「さくらんぼ」の明るい欧米の話の歳時記をお届けします。   六月の欧米は最も美しい季節で、寒からず暑からず、清々しく、長雨の続く我が国とは大違いです。フランス印象派のマネやモネの「草原の昼食」や、フーリエの「イボールでの婚礼」の絵は、爽やかな陽気の中でのピクニックや結婚披露宴の楽し気で寛いだ様子が描かれています。「ジューンブライド(六月の花嫁)」と言われるように、古代ローマで結婚を司った女神ジュノーに由来する六月に結婚すると幸せになれると昔から言われてきました。異説もあって、三月から五月にかけては農繁期で結婚が禁じられていたとか、五月に学期を終えて無事卒業出来た恋人たちが祝い合って、最も快適な恋の季節六月に結ばれる、とも伝えられています。日本でも、梅雨のない北海道は、晴天が続き、草木が瑞々しい若葉を茂らせ、彩り豊かな花々が咲く好時節となります。   六月を...
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第百三十二話「若葉・青葉・新緑・新樹」

日本千思万考  「若葉・青葉・新緑・新樹」     初夏の季節感を色で表現するとしたら、「緑」それも、「若緑・浅緑・薄緑」の類であって、盛夏のイメージに重なる「深緑・万緑」とは違って、”美しき五月”に相応しい、すがすがしい息吹を与えてくれます。ういういしい初夏の木の葉、みずみずしい若葉は、新鮮な命の光りを宿しているように目に飛び込んできます。若葉する場所によって、山若葉、谷若葉、森若葉、里若葉、寺若葉、庭若葉などと表すとか、若葉の頃の寒さや風雨を、若葉寒、若葉風、若葉雨と言うように、時候や天文と結びつけて用いる季語もあります。若葉して御目の雫拭はばや        松尾芭蕉若葉して手のひらほどの山の寺      夏目漱石まざまざと夢の逃げゆく若葉かな     寺田寅彦若葉吹く風やたばこのきざみよし     服部嵐雪古本の本郷若葉しんしんと        山口青邨           若葉がやや成長して、益々生い茂り緑を少し濃くし、青々とした生気を漲らせるさまを表すのが、青葉でしょうか。濃淡様々な見え方を青葉若葉などと表現します。余談ですが、青葉と言えば、山の緑に魚が集まると言う現象を名...
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第百二十七話:「冬の味覚の王者・寒鰤」

師走のご挨拶 中国武漢発から2年に亘り世界を翻弄して来た新型コロナウイルス感染症が、我が日本では、やっと落ち着きを見せて来たところです。そこに、またオミクロン株という新たな変異株問題が海外から報じられ、国には、迅速且つ効果的な水際対策に万全を期して頂きたいものです。 ここ2年間、多種多様なウイルス対策を学習し、実行してきましたが、中でも注目されたのは「免疫力」を高める食事のことです。生理医学的に実証されたのが、「ケルセチン」含有食品で、抗ウイルス(併せて、抗ガン)効果が高いそうです。その代表的なものが、赤玉葱、赤ブドウ、赤ワイン、リンゴ、ラズベリー、アスパラガス、モロヘイヤ、ニラ、ニンニク、ショウガ等で、いずれも血液循環を促し、体を芯から温めてくれる食材です。血流促進と言えば、冬の味覚の王者・ブリなので、今回の歳時記は「寒鰤」の話です。ご健勝を祈り上げます。ケン幸田「冬の味覚の王者・寒鰤」冬の海産物と言えば、カニ、アンコウ、アマエビなども美味として人気がありますが、何と言っても、脂が乗って身も引き締まった「寒ブリ」が最高で、刺身、鮨、塩焼き、照り焼き、ブリ大根に代表される煮物、そして鰤...
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第百二十五話:「野分・台風・ハリケーン・サイクロン」

昭和人間の筆者には「のわき(のわけ)」という古風で気取った言葉は使えませんが、かといって、言いなれた台風には、タイフーンという英訳があるので、これをアメリカで会話にしゃべっても通用しませんでした。さらに南アジアに行くと、暴風雨はサイクロンと言わないと通じないことも体験しました。 野分とは、台風の正体・熱帯性低気圧の渦巻も知らなかった昔の人々が、二百十日、二百二十日前後に、猛烈な暴風雨が襲って来て、野の草を吹き分ける表現だと言われておりますが、源氏物語や枕草子にも見かけられるので、古代からの標準語(大和言葉)だったようです。 高浜虚子の「大いなるものが過ぎ行く野分かな」の名句が、「野分」の雰囲気を見事に表現されており、「台風」の語より歴史を感じさせ、遥かに奥行きのある季語であることに気づかされます。 吹き飛ばす石は浅間の野分かな    松尾芭蕉鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分かな    与謝蕪村鷲の子や野分にふとる有磯海     向井去来猪もともに吹かるる野分かな     松尾芭蕉一番に案山子をこかす野分かな    森川許六 序でに、台風の語源ですが「タイフーン」とは、アラビア語の「クルクル回る...
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第百二十四話:「夏の大通りは歩行者天国」

「盛夏路上の図」という江戸時代の絵を見ました。そこに描かれているのは、日本橋あたりの大通りの歩行者天国のノリで、何やら商売をしている者と、楽し気な庶民の姿に興味を惹かれます。この道は活気にあふれ、皆のものと言った感じです。露天商と見受けられたのが、「水菓子」の看板を出しているが、そこに並んでいるのは西瓜で、切り売りをしているようですから、当時は果物を水菓子と呼称したようです。 西瓜くふ奴の髭の流れけり     宝井其角こけざまにほうと抱ゆる西瓜かな  向井去来 旅姿の一行は、富士講のスタイルの白装束で傘を被ったり、背に掛けたりしています。利根川と書かれた下に「鯉」の字が見える看板が見えますので、おそらく、「鯉の洗い」を酒の肴に出す小料理屋でしょうか。新鮮な鯉の身を薄く削ぎ、冷水で洗って肉をちぢめ引き締めたものを、酢味噌で味わう淡白な夏の料理です。 衣装もやみな白妙の富士詣     伊藤信徳利根の風まともに吹けり鯉あらひ  金子星零子 「天麩羅」の文字が見える屋台があり、客が座っており、真夏にも揚げたての天ぷらが庶民に好まれたようです。他にも、天狗の面を頭に乗せた羽織袴姿の大道芸人のよう...
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「マスコミの誤情報・偽情報や偏見論を見極める」ケン幸田

アメリカの主要メデイアによる反トランプ報道とそれに対抗するトランプ陣の報道合戦は、ポスト・トゥルース(脱真実)という新語の横行する不可思議な世相を生み出しております。我が国においても、朝日新聞が吉田清治なる小説家の虚偽の証言(本人が後に創作小説だったと認めた)を長期に亘って囃し立て(はやしたて)、韓国及び中国による“慰安婦問題”を国際化させ、さらには、本多勝一朝日新聞記者の捏造記事(これも、後に本人が捏造を認めた)から、中国による一方的な歴史戦“南京事件”を生み出してしまったように、マスコミの誤情報・偽情報は諸外国が日本を貶め曲解するに至り、政治的に悪用され、大いに国益を損ねる結果を招くものです。前世紀までは、報道の主流は活字(全国紙主体)と電波メディア(TVネット主体)が占めておりましたが、ここへ来てIT通信の普及が進み、今やSNSやユーチューブなどによる新たな情報ネットワーク媒体(ばいたい)が世論形成に大きな影響力を持つようになってきました。英国のEU離脱、トランプの大統領当選なども、その結果だったと言う見方が多いように見受けられます。いずれにしても、旧メデイアによる恣意的(しいて...
ケン幸田の世事・雑学閑談(千思万考)

沖止め船の検疫は古来、ペスト、コレラなどの水際防疫策

沖止め船の検疫(雑学その1) 昭和初めに季語のない新興俳句を主導した俳人、日野草城(ひの・そうじょう)に 「月明や沖にかゝれるコレラ船(せん)」がある。  これも無季かと思えばさにあらず、船内で感染者が出て沖止めされた船―「コレラ船」が夏の季語である▲季節の風物とみるのもどうかと思うが、昔はコレラによる船舶の沖止めがひんぱんにあったようだ。年配の方なら、1960年代のエルトール型コレラの流行により日本の港で内外の船が何隻か沖止めされた騒ぎを覚えておられよう▲感染症による船の沖止めとしては、それ以来の騒ぎだろう。乗員乗客数なんと3711人、横浜港大黒ふ頭沖に停泊している豪華クルーズ船で新型コロナウイルスの感染者10人が見つかったという。感染者は陸上の病院に搬送された▲香港で下船した乗客の1人が感染者と判明していたこの船である。厚生労働省は残りの乗客も14日程度は船内にとどまってもらうという。楽しい船旅の空間が一転、洋上の隔離施設に変わった乗客の方々にはなんともお気の毒だ▲大人数の乗客が船内の暮らしを共にする巨大クルーズ船は、今までに何度かノロウイルスの集団感染の舞台となってきた。船会社も...
ケン幸田の世事・雑学閑談(千思万考)

第壱百七話:「内外情報の断片に未来を覗く:香港騒乱」

(最近寄稿された長文の社会オピニオンをロハスケ編集部が抜粋編集しました)香港争乱は、香港市民の思いとは無関係に、エスカレートする米中対立の戦線の一つと化す一方で、立ちあがった香港市民の心情には、民主化要求だけでなく、庶民の生活難、格差拡大への不満もあるようで、世界の誤解の中で危機が刻一刻と近づいている情勢です。武警配備をしながら、手荒な対応を命じ、天安門事件の記憶を世界に呼び覚ますのを避けたい習主席は、大きな賭けに打って出たが、目下は建国70周年の「国慶節(十月一日)」を無事迎える為にも打つ手を欠くジレンマ状態に落ちっているようです。問題の根は深く、地域別の生産力(経済力)は、深圳が香港を上回り、若年層の雇用面でも香港は悪化の一途をたどり、中国本土からの不動産投資が庶民の住宅事情を悪化させ、ビルの屋上に掘っ立て小屋を建てて住む「天空スラム」を生むなど、社会に不均衡をもたらした為、「アジアで最も活気ある希望の街」が今やシンガポールへと移り、依然自由経済の恩恵を受ける金融業界を除き、香港の製造、商業サービス産業界は「絶望の街」と化したようです。2百万人にも達する香港のデモ隊は、多様な不満意...
ケン幸田の世事・雑学閑談(千思万考)

第壱百六話:「メディアの不信:報道の突っ込み不足」(その1)

トランプ大統領が、北米の主要メディアの偏向的な報道に対して「フェイク・ニュース」という強烈な一撃を加えて以来、そして活字や電波媒体を凌ぐ勢いのインターネット情報網の世界的普及から、我が国においても、マスメディアの報道姿勢や内容に関して、受け手の間に大きな不信感が生じ始めております。朝日新聞が、永年に亘る慰安婦問題関連の数々の捏造記事を認めながら、いまだに「記事に角度をつけよ」と政治社会部記者たちへ檄を飛ばしています。朝日に限らず、新聞テレビ各社は、{言論の自由、社会の木鐸}を掲げながら、明らかに“意図的に報道しない自由”や“角度をつけた=偏向した記事”を地で行く報道ぶりが、気になります。さらには、情報の深堀不足と言うか、情報の多角多面的分析不能と言うか、編集部門の勉強不足とも考えられるような報道ぶりが、最近特に目立つようになって来ました。一説に、AIへの過信から、手元にあるデータベースに頼り切り、未知未開な分野への追求心を欠く人的努力怠慢の為せる悪習だとの非難の声も聞こえてきます。以下、最近の内外報道に関し順不同ながら書き連ねてみます。あおり運転が問題視されて久しいながら、中々減らない...
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第壱百五話: 「両国の大花火」 付「ケン幸田のショート・オピニオン」

毎年7月下旬から8月にかけて、全国各地の大きな河畔や湖畔、あるいは海浜で花火大会の催しを行い、納涼の幕開けと致しますが、その起源は江戸時代の享保年間に遡り、旧暦の5月28日、川開きの初日祭事として、隅田川の両国橋の上下流で盛大に花火が打ち上げられたことに始まりました。花火は橋の上や岸から眺めても綺麗でありますが、やはり川に船を浮かべ、間近で眺めるのが最高とされます。涼しい川風に吹かれながら、芸者の三味線の音色を聴きながら夜空に挙がっては消えてゆく花火を眺めるのが、江戸の風流でした。その為、隅田川の川開きの時は、船宿の船は全て出払って、当時250m程だった川幅が船でいっぱいになり、船伝いに向こう岸に渡れる程だったそうです。花火尽きて美人は酒に身投げけむ 高井几董花火の発明は、17世紀中盤、奈良出身の鍵屋弥兵衛が火薬をおもちゃの花火にすることに成功し、これを売り出したもので、享保18年(1733年)江戸で流行していたコレラの退散を願って、両国で大花火を打ちあげたのが、流行の始まりでした。後の文化7年(1810年)鍵屋の手代だった清吉が独立し玉屋を創立し人気を得たので、その後は両国橋の上流が...
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第八十五話:「花見の歴史と名所・向島の今昔

我が国の「花見」の起源とされるのは、奈良時代の貴族による“梅を愛でる”もので、万葉集では「梅」を詠んだ歌が110首、当時から自生していた「桜」を詠んだのは43首に過ぎませんでした。ところが、平安時代になると、梅と桜が一挙に逆転しており、確かに古今和歌集を紐解くと「桜」を詠ったのが70首、「梅」を詠んだのは僅か18首と変じております。平安時代に嵯峨天皇が催した「花宴の節」が切っ掛けとなり9世紀末までには「花見」と言えば、”桜を愛でる“ことで、文字通り「花は桜のみ」を言い、他の花の鑑賞に関しては、梅見・観梅・菊見・藤見のように言う事が定着していったようです。なお「さくら」の語源には、古事記に登場する女神「コノハナサクヤヒメ」に由来するという説と、田の神様の宿る木の古語とする説があります。木の下に襟こそばゆき桜かな 服部嵐雪花に酔へり羽織着て刀指す女 松尾芭蕉その後鎌倉、室町の武士たちも貴族の風習「花見の宴」を受け継ぎ、中でも豊臣秀吉による吉野の桜見物と醍醐の花見などが歴史を飾っています。花見が庶民へと広がったのは18世紀、八代将軍吉宗が隅田川土手に百本の桜を本格的植栽し、並木の花見公園行楽...
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第八十四話:「大潮の頃、汐干狩と渦潮見」

水もぬるんで季節も良くなってくると、人々が川辺や海辺へ戻ってきます。雛祭りも昔は水とは関係が深く、川や海に人形を流して穢れを捨てる儀式だったそうで、これと時を同じくして行うのが「汐干狩」でした。晩春のころ、潮の干満が最も大きい「大潮」となり、(秋の大潮では引き潮が深夜になるのに対し春は)早朝から潮が引き始め正午には干上がって、遠浅の海底が陸地と化すので、アサリ、ハマグリ、カニなどの貝類や甲殻類、海藻などを採って、実益を兼ねたレジャーを楽しんだようです。往時は、早起きして隣近所の人たちが集い、船を貸し切って沖まで繰り出し、そのまま潮の引くのを待ち、船から降り立ってカキやハマグリを拾い、砂中のヒラメやカニを掘り当て、少し海水を残した浅瀬では小魚を得て、船へ戻り宴会を楽しんだのだそうです。やがて潮が満ちて来て、海水が平底の船が浮き上がれば、元の船着き場へ戻るという算段なわけで、のんびりした楽しい一日の行楽行事でした。尤も、昭和の経済成長時代を経て、海浜工業地帯の開発や埋め立てによる商業施設や宅地造成が加速されて、遠浅の海浜がどんどん喪失されてしまって、近年は家族連れや会社の行事で潮干狩りを楽...
ケン幸田の世事・雑学閑談(千思万考)

第八十三話:「如月は火事が多かった」

「火事と喧嘩は江戸の華」と言われ、季節的に空気が乾燥し、風も強かった一月下旬から二月にかけて江戸の大火は集中して派生したようです。江戸は火事の歴史と言っても言い過ぎではなく、市中が灰と化してしまうのでしたから、実際深刻だったにも拘らず、徳川幕府が良くも二百六十年以上も持ち堪えたものだと思われます。理由は簡単で、当時の世界大都市の中でも最多数だった百万もの人口をのみ込んだ江戸の街は、木造の長屋主体の密集地だったことに尽きます。中でも明暦三年(1657年)の大火は二日間に亘って燃え続け、折からの強風に煽られて火の手が広がり、商家や長屋から大名・旗本屋敷、寺社、橋に至るまで焼き尽くしました。この火事で江戸城天守閣も焼け落ち、さらに湯島天神、神田明神、歌舞伎座や人形芝居小屋、遊郭の吉原も、皆燃え尽き、死者が十数万人を数えたと言いますから、ただ事ではなかったようです。如月や身を切る風に身を切らせ 鈴木真砂女三度火事に逢うて尚住む神田かな 岡本松浜頻繁に発生する火事に備えるため、幕府も諸々の対策を講じ「定火消」という消火組織を作ったり、半鐘を備えた火の見櫓の設置を義務付けたりしました。また、焼け跡...