霜月ともなりますと、年末へ向けてだんだん忙しくなってきます。
子供の居る家庭ともなると11月15日の七五三が明治以降広く全国・全階層に広がりました。
氏神様へ参詣し、三歳男女児は髪置、五歳男児は袴着、七歳女児は帯解の祝いを執り行います。
適齢の子供や孫の有無にかかわらず、宮参りに前後して正月を迎える準備のための
「酉の市」がやってまいります。
毎年11月の酉の日(年によって2~3回)があり、順に「一の酉」「二の酉」「三の酉」と呼ばれて、
「市」とか「町」「お酉様」など語源を共通する「祭り」であり、
江戸近郊地域の農漁村と町の人々が品物を持ち寄る交流の場として発祥したようです。
農村からは、農具である熊手や里芋の一種である八つ頭、ほうき、むしろ等の日用品が、
町からは、煙草入れ、衣類やかんざし等の製造・細工物が持ち込まれ、
そうした「市」は正月支度の為の買い物に格好の場所として寺社の境内が活用されました。
やがて神社の祭神と結びつき「武運長久を祈る祭り」の側面を持つようになり、
平和が続く江戸中期には「開運招福」「商売繁盛」という性格の祭りと成り、
市は益々盛大になって行きました。
酉の市は、今も関東中心の寺社で行われており、大鳥・鷲(おおとりとも読む)の字を
冠する神社が多く、浅草の鷲神社が、江戸時代から続く最大規模の市で、
隣接する酉の寺・長国寺とともに例年数十万人を超える群衆で賑わい、
熊手店や露店の数も半端ではありません。
江戸時代、ここの酉の市が殊の外”大盛況“を極めたのは、
東側に新吉原があったからという理由も語り継がれています。
新吉原の普段の出入り口は、鷲神社とは反対側の大門に限られていましたが、
酉の市に限り西側の門も開けたそうで、遊郭もちゃっかり算盤をはじいていた訳です。
千客万来を願い遊女にも参拝を奨励したようで
「酉の町やり手へ土産熊手なり」といった川柳が残されています。
因みに今年は、一の酉が11月11日、二の酉が11月23日で、三の酉はありません。
若夫婦出してやりけり酉の市 高浜虚子
ところで、この盛況な酉の市の陰には、江戸っ子の洒落心と知恵が巧妙に仕掛けられておるようで、
熊手は“福をとりこむ”“福をかき集める”との意味があり次第に派手となり、
稲穂、米俵、お多福の面、宝船に大福帳、大判小判・千両箱など、縁起物オンパレードとなりました。
八つ頭とは、蒸した里芋をおかめ笹に通したもので、“八つ=多くの人の上に立ち出世できる”とか、
“その姿はコブがいくつもくっついたような形状から、”子宝に恵まれる“といったように、
大変目出度い食べもので、今でも正月料理に欠かせない縁起の良い食材となっています。
他に酉の市に欠かせない重要なものに粟餅があり、粟の実は黄色で、
これを搗いて餅にして黄粉をふりかけたので、
別称「黄金餅」すなわち”金持ちになれる“と縁起を担ぎました。