太平洋戦争は不可避だった!! ?
2015年8月15日は太平洋戦争後70年の記念日。
争いの原因分析が進み、歴史的考察は出尽くした感がありますが、
誰もが指摘するのが日本人の語学下手。対外コミュニケーションの不足です。
当時は外務省にさえ語学の達人は希少。
生活文化にも大きな相違がありますから、対外的なコミュニケーションがほとんどできません。
国際的に孤立しやすい土壌が充分すぎるほどありました。
加えて維新以来の省庁組織は硬直化した縦割り。
外国どころか外務省、海軍省、陸軍省はもとより、政党間も各々がコミュニケーション不足。
資源不足を補うために東南アジア諸国や大陸に進出をしたものの、経済は疲弊の一途。
格差社会が表面化し、内政はこれまで経験のない混乱。
国際紛争を収束させるのは容易ではなかったでしょう。
外交には政治家、省庁の幹部が外国政府要人と私的交遊をすること、出来ることが
最重要.
それに気付いたのは太平洋戦争が不可避になってからでした。
太平洋戦争(1941-1945)の開戦、終結と戦後日本の復興を考えるときに
グルー大使と来栖三郎大使は忘れてはならない人。
1.野村吉三郎駐米大使と来栖三郎特命全権大使
軍人出身(海軍大将)の野村大使は1941年1月に赴任して、
ハル国務長官(Cordell Hull、Secretary of State)と交戦回避交渉を始めていた。
事態は極度に悪くなっており、すでに抜き差しなら無い状態。
制御不能な日本の内政混乱を考査すれば、外交官の対米交渉によって
開戦を回避することは、当初から可能性が薄かった。
非常に困難で、誰もが嫌がる役割を与えられたが、
近衛とのトップ会談開催提案も米国に拒絶され、交渉は当然のことながら失敗に終わった。
高飛車に脅し続ける英米と内政不安を抱える日本。
日米戦争の足音が近づいた1941年1月に、駐ドイツ大使の来栖は、急遽任地より呼び戻された。
第二次近衛内閣を組閣していた近衛文麿総理(外相は松岡洋右)は、米国通の来栖を、
難航が予想される野村吉三郎駐米大使の側面援助に使うことを考えていた。
来栖が対日外交の実力者グルーの個人的信頼が厚かったからである。
来栖らのグルー工作にも関わらず、5月頃よりは、独ソ開戦、対日資産凍結、
日本軍の仏印進駐、対日石油の禁輸など状況は悪化の一途をたどり、10月には
第三次近衛内閣が総辞職。
戦争遂行内閣ともいえる東條英機内閣が成立した。
来栖起用の反対者である松岡外相が東郷茂徳に変わるや、
来栖は特命全権大使に任命され、現地の野村大使を補佐することとなった。
来栖が実際にワシントンに到着したのは1ヵ月後の11月。
明日にも開戦という、どうにもならない時期。
10数年間国務長官を務め、日本嫌いのルーズベルト大統領の下で
受け入れがたい最後通牒(ハル・ノート)によって日本を追い詰めた
対日強硬、開戦派の最右翼.
衣の下の鎧(よろい)のたとえ通り、ノーベル平和賞受賞、国連設立などで
一見平和主義者を装うが、南部出身者(テネシー州)に多い
白人優越主義の代表とも言われた。
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来栖は12月の開戦時には、宣戦布告をめぐる
未達問題(1941年12月のパールハーバー襲撃が奇襲か否か)にも巻き込まれて非難され、
失意のまま、翌年1942年の交換船で帰国する。
まさに不運続きであり、悲劇の外交官。
2.開戦のカギを握っていたグルー駐日大使.
当時、日米の外交において、最も重要な役割を果たしていた米国人はジョゼフ・グルー。
この認識に欠ける政治家も多かった。
グルーは単なる駐日大使ではなく、国務省の重鎮。
グルーの信頼の無いものには、米国との交渉当事者になる能力が無いに等しかったといえる。
野村も外相経験者(1939年)としてグルーと親交があったが、いかんせん語学下手。
来栖はグルーの友人として、より信頼された、数少ない日本人の一人。
破滅寸前、一縷の望みを抱いた東郷らに大任を背負わされたのであるが、
認識があまりに遅すぎた。
日本の敗色濃い1945年7月、グルーは三人委員会の中心人物として
ポツダム宣言(Potsdam Proclamation)を起草するが、
そこに盛り込む無条件降伏(unconditional surrender)の表現にこだわった。
天皇制を完全否定しては、日本国内の戦後統治と赤化防止は困難と見ていたからである。
日本の天皇制は他国の君主制と大きく異なり、欧米関係者の誰もが理解できない。
グルーは滞日中に来栖など何人かの信頼する親密な友人を通じて、天皇制の実態を学び、
天皇以外に終戦宣言が不可能なことも良く知っていた。
当時は外務省出身の総理や外務大臣経験者の逸材が多数存在したため、
来栖は目立たなかった人ではあるが
「グルーに信頼された友人」ということのみでも、その存在の重要性は評価すべきであり、
日米関係に果たした役割は大きい。
野心のない来栖は吉田茂など他の多くの外交官のように戦後の日本で活躍することも無く
1954(昭和29)年に亡くなった。
日本が太平洋戦争を避けることが出来なかった原因として、同盟国選択議論において、
結局はドイツを選択してしまったことがあげられる。
中国大陸における列国の利権争いのなかで、日本軍や財界に
反英米思想が育まれていく。
良好な国と国の関係は指導者層の人間関係が左右するが、究極は人種問題。
当時の米国は建国から日が浅く、知識層に人材が乏しかった。
各界の指導者層には、白人優越主義の人種差別(racial prejudice)が露骨に存在し、
日本と良い関係を保つことは困難であったろう。
3.松岡洋右外相の反米思想
第二次近衛内閣の松岡洋右外相(1880-1946)は米国とその人種差別を最も知る
知識人の一人といえる。
明治時代、13歳の時に渡米し、学生時代の大半を米国で過ごした。
しかしながら米国を熟知するが故の彼の反米、親ドイツ思想は、
軍部ドイツ派の後ろ盾ともなり、日本の航路を大きく左右した。
近衛は改革阻害をする反米の実力者、松岡外相排除のために、
内閣総辞職をしたといわれている。
4.政経支配層と軍部中堅将校との階級闘争と赤化闘争
また、当時の政治が極度の混乱に陥ったのは、
軍部の活動層である中堅将校と維新以来固定化してしまった
日本国の政経支配層との階級闘争が根底(近衛首相談)にあったからである。
すでに持てる者と持たざる者の階級闘争は世界の各地で赤化という形で始まっており、
日本の中堅将校は農村出身の持たざるもの層が多かった
日本軍の過激な中堅将校は赤化同様な戦いを繰り広げていく。
政治家、官僚、実業家には軍の過激派を利用するものも続出する。
大戦を回避するべく国内調整や外交努力をしていた勢力も、結局は国内の
階級闘争を制御できなかったために、大戦に突入してしまう。
言い換えれば、日本にも形の違う赤化抗争が始まっていたということだろう。
5.ジョゼフ・グルー(Joseph Clark Grew:1880–1965)
ボストン生まれ。1904年外交官となる。
駐日大使として動乱の日本に10年近く駐在し(1932-1941)、
当時の日本の国情と文化を塾知していた。
対日開戦が近づいた米国政府にとって、最も正確な情報源として、
大きな存在感を持っていた実力者であるが、
彼をもってしても、ルーズベルト大統領( Franklin Delano Roosevelt :1882―1945)をはじめ、
反日派が占める政権内に、日本の意向を汲ませるのは、困難であったという。
親日家として著名であったため、大統領に厭われていたから、ともいわれていた。
1945年4月、ルーズベルトの急死によって
トルーマン大統領(Harry S. Truman:1884―1972)に政権が変わった後は
国務省の知日派代表として大統領に信頼された。
グルーは日本に赴任以来、気のあった同年輩の
有田八郎(1884-1965:昭和10年代に外務大臣を歴任)や
来栖三郎と家族ぐるみの交際を続けた。
6.グルーの回顧録「Turbulent Era:激動の時代」
1952年に米国で出版されたグルーの回顧録「Turbulent Era:激動の時代」は
2冊組の大作。
第二巻に、ポツダム宣言原案に関する記述がある。
グルーは1945年5月28日にトルーマン大統領に次のような進言をしたという。
「無条件降伏という文言の最大の障害は、日本人がこれを天皇と天皇制の
破壊ないしは、永久的な排除と解釈することである」
The greatest obstacle to unconditional surrender by the Japanese is their belief
that this would entail the destructionor permanent removal of the Emperor and
the institution of the Throne.
7.グルーの一人娘エルシーと東京の親米社交界
グルーの一人娘エルシーは結婚願望が強かったが、米国人としても、
体が大変大柄だったため、適齢期男性の関心が薄かったという。
グルーは令嬢の将来を心配し、令嬢中心の社交パーティーを頻繁に催した。
パーティーには各国大公使館の外交官や在日知識人、日本人外交官、
財界人子弟、などを多数招待していたため、
日本では珍しかった大使令嬢を中心の親米社交界が存在した。
エルシーは結局新たに米国大使館に赴任してきた
書記官(Lyon Cecil T. F. Burton :1903-1993)と日本で結婚するが、
この過程を通じて有田や来栖は、グルーとより良好な関係を持つこととなる。
陛下に請われて、敗戦必死の日本国総理大臣を引き受けた鈴木貫太郎大将(1867-1948)は、
世代が異なったこともあり、グルーと家族ぐるみの交際はなかったが、
グルーが尊敬していた数少ない日本人。
語学が達者ならばよりよい関係を持てただろう。
渡米留学生を支援する財団、グルー基金は、彼の日本に対する功績を記念して、
樺山愛輔氏らが代表となって1950年に設立された。
8.来栖三郎(1886-1954)
来栖三郎は横浜商工会議所副会頭来栖荘兵衛の3男。
現在の一ツ橋大学を卒業して、1910年に外務省入省。
駐ベルギー大使、駐ドイツ大使を経て1941年に米国へ特命全権大使として赴任した。
若き頃の米国赴任中にタイピストだった米国婦人アリス(Allice)と結婚し、
長男(良:大戦中の1944年に福生飛行場で事故死?)と
姉妹(ジェー:Jaye、ピア:Pia)に恵まれた。
長男「良」の外見はハーフ特有であったが、愛国心が強く、職業軍人として
首都圏防空に当たっていたのがアリス夫人の自慢。
ジェーは慈恵医大創立者高木兼寛の孫と結婚したが、後に離婚。
来栖は数少ない語学達者な人材でしたが、当時は「英語使い」と蔑称されるような時代。
かえって疎んじられていたといわれます。
9.三人委員会(Committee of Three)
外交担当の国務大臣代理グルー、戦争担当大臣スティムソン(Henry Stimson) 、
海軍大臣フォレスタル(James Forrestal.)の三人がメンバー構成員。
無条件降伏とは何かの解釈を明白にし、日本を納得させて、早期降伏を促すことを目的とした。
この解釈は後に三人委員会が起草したポツダム宣言に盛り込まれる。
初版:2007年8月
改訂版:2013年8月
改訂版:2015年8月
(しらす・さぶろう)