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健康と食品の解説世界に知られた日本人と外国人

米ぬかパワーで日清、日露戦争を勝利に導いた高木兼寛海軍軍医総監

1945年8月15日の太平洋戦争終戦日。
70年後になった今も300万人以上が亡くなった戦争の傷跡は
多くの遺族、関係者の記憶から消し去ることが出来ません。
毎年のように8月15日前後にマスコミをにぎわせる様々な
議論と太平洋戦争実録の開示。

戦争の恐ろしさを体験した人も80才前後となり、実戦に参加した人は
90才を超えています。
正しい、公平な情報を後世に伝え、少しでも風化を遅らせる努力が
再発防止に役立つでしょう。
争いの最大原因ともいえる領土、資源の奪い合いはいまだに続きますが
戦いの主体となるのが軍隊。
科学の発達で軍隊の実態は大きく変わりつつありますが、
いつの時代にも多くの国で愚かな(おろか)政官の指導者によって
悪用されることが多いのが「軍隊」
これからも改憲や軍備を巡っての議論が続きますが、
「軍隊」の表裏を知ることは「戦争抑止」の一助となるでしょう。

 

1. 多くの教訓をのこした明治期の陸軍脚気(かっけ)多発事件

維新後の明治政府が徴兵をスムースにするための「ニンジン」は
将兵がたらふく食べられる銀シャリ(白米飯).
いまでは死語ですが、当時は贅沢の代名詞。
この悪習は早い段階で将兵の脚気死の原因と疑われていましたが、認めたくない
陸軍指導部により、白米飯の習慣は明治時代末期まで続きました。
陸軍はその間数十年に十数万人を超える(それ以上との説も)死者を出したといわれます。

 

脚気とは
脚気(beriberi)はビタミンB?の欠乏により心臓、末梢神経がおかされ
脚にむくみ、痺れが発生する疾病。
多くが心不全となり死亡します。
ビタミンB?は米糠(こめぬか)に豊富に含まれますが精製により失われます。
維新以後精白米を食べる習慣が広まるにつれ発症が急増していました。

軍隊脚気死急増の抑止には疫学的実証から白米兵食に脚気の原因ありと指摘した
薩摩藩出身の医学者高木兼寛氏(たかぎ・かねひろ:後の海軍軍医総監)が貢献。
日清、日露戦争を勝利に導いた最大の功労者といっても過大評価ではないでしょう。

その功績は吉村昭氏の小説「白い航跡」や出身地宮崎県の偉人として紹介され、
後世に伝えられています。
すでに高木兼寛氏の偉大な功績は医学関係者の誰もが認めることですが、
この事件にはいくつもの示唆に富んだ興味深い背景があることは紹介されていません。
いずれにも今に繋がる教訓があります。

 

日本としては規模が大きい米畑(山形県の田圃:たんぼ)

 

2.第一の教訓は官僚制度の欠陥
官の組織ではどんな重大なミスも責任の所在がぼかされ、特定人物が責任を追及されたり、
法で裁かれることがほとんど無いこと。

維新政府樹立後に陸軍の医学関係の頂点は
石黒忠悳(いしぐろ・ただのり:1845年-1941年)初代陸軍軍医総監.
福島県出身にかかわらず長州閥に近づき地位を確立。
その配下であった森鴎外(森林太郎:1862年:文久2年 – 1922年:大正11年)陸軍省医務局長らは
明治中期にはすでに脚気原因説のあった兵食の白米食問題を無視し続け、明治末期までに
十数万(?)ともいわれる脚気死を傍観したといわれています。

ドイツで学び、脚気を微生物が原因と主張する石黒忠悳陸軍軍医総監と
森鴎外(森林太郎)陸軍省医務局長や、帝国大学(東大)の青山胤通医学科長、
細菌学の緒方正規教授らは、作用機序が判明しなければ「灰色は黑ではない」と
細菌説を通し続けていました。

当時は陸軍にも良識派が存在し高木兼寛海軍軍医部長の白米原因説を支持。
1888年(明治21年)にはドイツに留学中の予防医学の権威であり、破傷風菌の発見で
世界的な細菌学者となっていた北里柴三郎博士(1853年:嘉永5年)-1931:昭和6)も
緒方正規教授らの細菌説を否定。
一時的には陸軍の白米原因説賛同派が傘下の部隊に麦飯を採用し、脚気死が
著しく減少した時期もあったそうです。

 

**現代でも「灰色は黑ではない」との主張は製薬会社や食品会社が
販売商品の安全性に疑いを持たれた時に使用するスタンス。
死者を多発し続けながらも否定を続けた明治脚気事件の類似例は
太平洋戦争後にも続き、チッソの水俣水銀事件、昭和電工のイタイイタイ病事件、
クボタ、ニチアスなどのアスベスト事件、花王のエコナ事件、
ミドリ十字の「肝炎汚染血液輸血事件」など社会問題化した事件は多々あります。
ダイオキシン、水銀、トランス脂肪酸などの汚染食品は、関わっている企業があまりに多いために
現在でも「灰色は黑ではない」と、改善が遅々として進まないのはご承知の通りです。

明治期の陸軍脚気多発事件は自己の名誉と地位保全のために多くの将兵を犠牲にした
陸軍幹部の悪しき実例として以後の研究者達に語り続けられていますが、
一つの救いは延べ数十万とも言われる海軍将兵を救った高木兼寛博士が功績により
男爵に列せられ、かつ貴族議員に推挙されたこと。
慈恵会病院設立などで医療関係の仕事を生涯続けたこと。
従二位勲一等旭日大綬章を授けられたことです。

否定派として陸軍将兵の十数万人(?)を死に向かわせた森鴎外(森林太郎)医務局長は
期待した爵位や貴族院議員に縁がなくなり、医学、医療の世界から去りました。
黒白は、はっきりしましたが、石黒陸軍軍医総監や森鴎外氏が罪に問われることは
ありませんでした。
兵食の改善を遅らせた最大の原因は明治維新以来の軍隊組織の欠陥といえますが
省庁組織の負の一面を紹介する好例ともなっています。
悪弊は太平洋戦争期にも継承され、多数の若者を死地に投入した責任者の
旧軍指導者が大戦後の政経界の表舞台に素知らぬ顔で出現していました。

 

3.第二の教訓は軍隊組織の独善性

軍は国防機密保持を錦の御旗に、指導者の問答無用の独善が通る世界。
上層部への反論は一切認めないのが特徴的。
加えて不利なことは理不尽な隠ぺいをし続ける組織であること。それが許されること。
配下の命は指導者が自由にできると錯覚していること。
再軍備に反対者が多い所以(ゆえん)です。

 

4.第三の教訓は大きな組織には拮抗勢力が必要なこと

三権や行政、軍の組織は一人の権力者に動かされないこと。
常に拮抗する抵抗勢力が必要なこと。
陸軍が抜きんでた強力な組織であったにかかわらず、海軍という組織が
独自性を持って行動していたために最終的に正論が勝利したのが
この事件。
陸軍脚気事件には拮抗勢力があったために日清、日露戦争に勝利し、
多くの命が救われた好例です。

 

5.第四の教訓は伝統ある食材は安易に成分バランスを崩さないこと

食用動植物の成分バランスにはそれなりの理由があります。
よほどの安全性を確認できなければ成分調整や精製(削除)などをしない。
菜種やフグなどのように明らかな毒性部分の切除は意味ありますが
一般的には毒性部分も適量なら有用であることがほとんどで、拮抗した成分が
その毒性を制御し安全性を確保しています。
また各成分が補いあって健康増進に役立ちます。
玄米には米ぬか部分にビタミンB群、Eがたっぷり。
白米は精製により米ぬかが排除されています。
米ぬかにビタミン群が豊富なことは後に知られたことですが、軍脚気事件の初期段階で
海軍の高木医学博士は疫学的見地からこのことを推定していました。

製薬で多用される有効成分単体を抽出し、大量培養。
それを大量に投与する手法は食生活やサプリメントでは避けるべきとの教訓です。
高木医学博士は兵食の白米の欠陥を補うために主食には麦の混入や肉食併用などを
推奨しましたが、作用機序の解明に関心が薄かったため、否定派にスキを与える原因と
なったといわれています。
1908年(明治41年)になり寺内正毅陸軍大臣(てらうちまさたけ)が兵食の改善を指示。
大正初期(1912年前後)に鈴木梅太郎博士(1874年 – 1943年)による米糠(ぬか)からの
ビタミンB群の発見(オリザニン)で作用機序が明らかになり、やっと論争に
終止符が打たれたといわれます。

 

6.白米主食に疑問を持った高木兼寛海軍軍医総監(1849年-1920年)

軍脚気事件の原因が兵食の白米にありと主張した高木兼寛氏は
薩摩藩傘下(現在の宮崎市)出身の薩摩郷士の子。
1880年(明治13年)ごろの海軍では総兵員数4,500名ほどのうち3分の1が
脚気患者だったと伝えられています。
イギリス留学経験のある高木兼寛氏はイギリスには脚気患者がいないこと。
海軍の艦船が海外で寄港中は脚気が発生しないこと。
下級兵士に発症が多いこと。
などなどから艦艇の食生活に脚気の原因があるのではと推測。
艦艇に欧米式食生活の導入を提案しました。

その後の経緯は多くが伝えられていますが、退役後は
有志共立東京病院(のちの東京慈恵会医科大学病院)を設立するなど、
わが国の予防医学、医療、看護の発展に尽力。
また横須賀で流行している海軍カレーの創始者でもあります。

日本はどこの農村部でも小規模な米畑(田圃:たんぼ)を
見ることが出来ましたがコメ離れ傾向により減少しています

 

昭和の高木ファミリーは皇族、華族、軍人、医療関係者に広く知られた著名人。
長男は医学者の高木喜寛男爵(たかぎ よしひろ:1874年‐1953年)。
貴族院議員、ラグビー・フットボール協会初代会長です。
喜寛男爵夫人志摩さんは小説家有島武雄、画家生馬氏の姉妹。
高木喜寛男爵の長男は高木秀寛(ひでひろ)さん。
ケンブリッジ大学を卒業した建築家ですが、昭和天皇のゴルフ仲間であり、
友人として知られています。

 

7.高木兼寛海軍軍医総監の比較実験

脚気が年々増えていた1882年(明治15年)から1883年に遠洋航海に出ていた軍艦「龍驤」が
帰港しましたが乗組員の5割近くが脚気を発症。
5%近くが死亡する事件が起きました。
高木兼寛軍医は半年後の1884年(明治17年)に同様日程で遠洋航海に出航予定だった
軍艦「筑波」の兵食を欧米式にして「龍驤」と比較実験することを提案。
受け入れられました。
この実験は大成功。脚気患者は一人も発生しなかったと伝えられています。

脚気の予防に米ぬかの効能を証明した高木兼寛(たかぎかねひろ)海軍軍医総監の手法は
疫学的立証であり、万人に解りやすい方法。
医薬品などの効果を試す方法として用いられることの多い
ダブルブラインド手法(二重盲検)に通じます。
原始的ともいえますが確度の高い手法として今でも数万人、数十万人を対象とした
多くの疫学的大規模調査(コホート)に採用されています。

 

8.日清戦争(1894年)と日露戦争(1904年)の脚気被害

すでに抵抗勢力となった陸軍省医務局関係の細菌説支持幹部の代表は
外堀が埋まっても自己主張を通し続けた森鴎外医務局長。
日清戦争(1894年:明治27年-1895年:明治27年)では高木兼寛軍医が指導した
海軍は麦飯を採用し、脚気患者は一人も発生しませんでしたが、細菌説に固執していた
森鴎外医務局長が指導した陸軍は戦死者を10倍近く上回る4,000名近くの
脚気死を出したといわれます。

10年後の日露戦争(1904年:明治37年- 1905年:明治38年)では戦域が
遼東半島に拡がったために被害はさらに増します。
軍人総数20万人に準戦闘員を加えて100万人が国内外で動員された日露戦争は
15万人(?)以上の陸軍兵力が朝鮮半島、遼東半島中心の陸戦に投じられましたが、
圧倒的に優勢な火器を持っていたわりに、将兵が末梢神経を冒されて脚がふらふら。
半島での戦闘がにらみ合いの硬直状態となったと伝えられています。
その原因は戦闘員の20%以上が脚気を発症。
戦死者も70%以上が脚気によるものと伝えられています。

全軍の兵食がすでに欧米式に改善され、元気いっぱいの海軍が遠洋航海で疲弊していた
バルチック艦隊を壊滅させなければ、この戦争の勝利はなかったでしょう。

(記載した当時の統計数字は操作数字、推定数字が多いといわれ
信頼すべき数字ではありませんので、?マーク)

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